原民喜
底本:「夏の花・心願の国」新潮文庫、新潮社
1973(昭和48)年7月30日初版発行
入力:tatsuki
校正:林 幸雄
原民喜
緑色の衝立(ついたて)が病室の内部を塞(ふさ)いでいたが、入口の壁際(かべぎわ)にある手洗の鏡に映る姿で、妻はベッドに寝たまま、彼のやって来るのを知るのだった。一号室の扉のところまで来ると、奥にいる妻の気配や、そちらへ近づいて行こうとする微(かす)かに改まった気分を意識しながら、衝立をめぐって、ベッドのところへ彼がやって来ると、妻はいたずらっぽい微笑で彼を迎える。すると彼には一昨日ここを訪れた時からの隔りがたちまち消えてしまう。小さな卓の花瓶(かびん)にコスモスの花が、紅(あか)い小さなボンボンダリアと一緒に挿(さ)してあるのが眼に留ると、彼は一昨日は見なかったダリアの花に、ささやかな変化を見出(みいだ)すのではあったが、午後の明るい光線と澄んだ空気は窓の外から、今もこちら側を覗(のぞ)いている。……
ベッドの脇(わき)の椅子に腰をおろした彼は、かえって病人のような気持がするのだった。午後になると微熱が出て、眼にうつる世界がかすかに消耗されてゆく、そうすると、彼には外界もそれを映すものも冴(さ)えて美しくなった。彼の棲(す)んでいる世界はいま奇妙な結晶体であった。彼はその限られた世界の中を滑(すべ)り歩いていたし、そうして、妻の病室へやって来る時、その世界はいちばん透きとおっていた。
白いカバアの掛った掛蒲団(かけぶとん)の上に、小豆色(あずきいろ)の派手な鹿子絞(かのこしぼり)の羽織がふわりと脱捨ててあるのが、雪の上の落葉のようにあざやかに眼にうつるが、枕(まくら)に顔を沈めている妻は、その顔には何か冴(さ)え冴(ざ)えしたものがあった。二日まえのことだが、彼はこの部屋が薄暗くなり廊下の方がざわつく頃まで、じっと妻の言葉をきいていた。そして、結局しょんぼりと廊下の外へ出て行った。すると翌日、病院へ使いに行った女中が妻の手紙を持って戻り彼に手渡した。小さく折畳んだ便箋(びんせん)に鉛筆で細かに、こまかな心づかいが満たされていた。(あなたがしょんぼりと廊下の方へ出てゆかれた後姿を見送って、おもわず涙が浮びました。体の方は大丈夫なのでしょうね、余計な心配をかけて済みませんでした、……)努めて無表情に読過そうとしたが、彼は底の方で疼(うず)くようなものを感じた。