原民喜
底本:「夏の花・心願の国」新潮文庫、新潮社
1973(昭和48)年7月30日初版発行
入力:tatsuki
校正:林 幸雄
原民喜
日が短くなっていた。病院を出て家に戻って来るまでに、あたりは見る見るうちに薄暗くなってゆき、それが落魄(らくはく)のおもいをそそるのでもあった。薄暗い病院の廊下から表玄関へ出ると、パッと向うの空は明るかった。だが、そこの坂を下って、橋のところまで行くうちに、靄につつまれた街は刻々にうつろって行く。どこの店でも早くから戸を鎖(と)ざし、人々は黙々と家路に急いでいた。たまに灯をつけた書店があると、彼は立寄って書棚(しょだな)を眺めた。彼ははじめて、この街を訪れた漂泊者のような気持で、ひとりゆっくりと歩いていた。そうしているうちにも、何か急(せ)きたてるようなものがあたりにあった。日が暮れて路(みち)を見失った旅人の話、むかし彼が子供の頃よくきかされたお伽噺(とぎばなし)に出てくる夕暮、日没とともに忍びよる魔ものの姿、そうした、さまざまの脅(おび)え心地(ごこち)が、どこか遠くからじっと、この巷(ちまた)にも紛れ込んでくるのではあるまいか。
……弥生(やよひ)も末の七日(なぬか)明ほのゝ空朧々(ろうろう)として月は在明(ありあけ)にて光をさまれる物から不二(ふじ)の峯幽(かすか)にみえて上野谷中(うへのやなか)の花の梢(こずゑ)又いつかはと心ほそしむつましきかきりは宵よりつとひて舟に乗て送る千しゆと云所(いふところ)にて船をあかれは前途三千里のおもひ胸にふさかりて幻のちまたに離別の泪(なみだ)をそゝく
彼は歩きながら『奥の細道』の一節を暗誦(あんしょう)していた。これは妻のかたわらで暗誦してきかせたこともあるのだが、弱い己(おの)れの心を支(ささ)えようとする祈りでもあった。
……幻のちまたに離別の泪をそゝく
今も目の前を電車駅に通じる小路へ、人はぞろぞろと続いて行った。
(昭和二十二年四月号『四季』)