原民喜
底本:「夏の花・心願の国」新潮文庫、新潮社
1973(昭和48)年7月30日初版発行
入力:tatsuki
校正:林 幸雄
原民喜
こうした手紙をもらうようになったのか――それは彼にとっては、やはり新鮮なおどろきであった。妻は入院の費用にあてるため、郷里に置いてある箪笥(たんす)を本家で買いとってもらうことを相談した。彼がさびしく同意すると、妻は寝たままで、一頻(ひとしき)り彼の無能を云うのであった。十年前嫁入道具の一つとして郷里の土蔵に持込まれたまま、一度も使用されず、その箪笥がひと手に渡るのは彼にとっても身を削(そ)がれるような気持だった。だが、身の落目をとりかえすため奮然として闘(たたか)うてだてが今あるのだろうか。彼は妻の言葉を聞きながら、薄暗くなってゆく窓の外をぼんやり眺(なが)めていた。おぼろな空のむこうに、遙(はる)かな暗い海のはてに、火を吐いて沈んでゆく艨艟(もうどう)や、熱い砂地に晒(さら)されている白骨の姿が、――それは、はっきりした映像としてではなく、何か凍(い)てついた暗雲のようにいつも心を翳(かげ)らせている。それから、何気ない日々のくらしも、彼の周囲はまだ穏かではあったが、見えない大きい力によって、刻々に壊(こわ)されているのではないか。どうにもならない転落の中間に、ぽつんと放り出された二人ではないか。そうおもいながら、あのとき彼は妻にかえす言葉を喪(うしな)っていたのだが……。書斎の椅子にぐったりとして、彼は女中が持って帰った妻の手紙を、その小さな紙片をもとどおりに折畳んだ。悲壮がはじまっていた。そしてそれは、ひっそりとしているのであった。