秋日記

原民喜

秋日記書籍情報

底本:「夏の花・心願の国」新潮文庫、新潮社
   1973(昭和48)年7月30日初版発行
入力:tatsuki
校正:林 幸雄

秋日記 5

原民喜

 久し振りに爽(さわ)やかな光線が庭さきにちらついていたが、彼は重苦しい予想で、ぐったりとしていた。再検査の紙が彼のところにも送附されて来たのだった。それは、ただ医師の診断を受けて、書込んでもらえばよかったのだが、そういうものが舞込んで来ることに、彼は容易ならぬものを感じた。彼は昨日も訪れたばかりの妻のところへ、また出掛けて行きたくなった。
 街は日の光でひどく眩(まぶ)しかった。それは忽(たちま)ち喘(あえ)ぐように彼を疲らせてしまった。だが、病院の玄関に辿(たど)り着くと、朝の廊下は水のように澄んでいた。ひっそりとした扉をあけて、彼が病室の方へ這入(はい)って行くと、妻は思いがけない時刻にやって来た彼の姿を珍しげに眺め、ひどく嬉(うれ)しそうにするのであった。その紙片を見せると、妻はしばらく黙って考えていた。
「診察なら、津軽先生にしてもらえばいいでしょう」と、妻はすぐにまた晴れやかな調子にかえった。
「お天気がいいので訪(たず)ねて来てくれたのかと思ったら、そんなことの相談でしたの」と妻は軽く諧謔(かいぎゃく)をまじえだした。「御飯を食べてお帰りなさい、久し振りに旦那(だんな)さんと一緒に御飯なりと頂きましょうよ」
 妻は努めて、そして無造作に、いま重苦しい考を追払おうとしていた。……赤いジャケツを着た、はち切れそうな娘が、運搬車を押して昼食を持って来た。糖尿試験食の皿と普通の皿と、ベッド・テーブルの上に並べられると、御馳走(ごちそう)のある試験食の方の皿から、普通食の皿へ、妻は箸(はし)でとって彼に頒(わか)つのだった。

 翌日、約束の時間に出掛けて行くと、妻のところに立寄った津軽先生は、軽く彼に会釈して、廊下の外へ彼を伴なって行った。医局の前を通りすぎて、広い部屋に入ると、彼は上衣(うわぎ)のボタンをはずした。妻のひどく信頼している津軽先生は、指さきから、ものごしにいたるまで、静かにととのった気品があった。一度は軍医として出征したこともあるのだが、荒々しいものの、まるで感じられない人柄であった。その、いつも妻の体を調べている指さきが、いま彼の背を綿密に打診していた。すると、かすかに甘えたいような魔術が読みとられた。津軽先生はペンを執って、再検査の用紙の胸部疾患の欄に二三行書込んで行った。「脚気(かっけ)の気味もあるようですね」と先生は呟いた。